赤穂城

兵庫県赤穂市に位置する赤穂城は、江戸時代に入ってから築城された数少ない城のうちの一つです。浅野長直が、正保2年(1645)に近藤三郎左衛門正純へ築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成しました。

現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類されます。
縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側の三之丸は二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されています。銃砲戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられています。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。
本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されませんでした。
明治時代前期に廃城されると建物は破却、一部の石垣と堀のみを残し、土地の大部分は民間へ払い下げられて田畑や宅地に転用された。本丸跡は小学校ほか、公共施設の用地に当てた。旧制赤穂中学が1928年(昭和3年)に設けられて戦後は学制改革を受けて兵庫県立赤穂高校と称し、1981年(昭和56年)まで西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していました。
『Wikipedia 赤穂城』より抜粋

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